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NHK朝ドラ「とと姉ちゃん」のモデル・大橋鎮子さんとはどんな人物?

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高畑充希さん主演のNHK朝ドラ「とと姉ちゃん」が
週間平均視聴率21.7%(関東地区)を記録。
前作「あさが来た」の第一週の平均20.3%を上回り、話題になっています。

・出典<とと姉ちゃん>初週視聴率21.7% 「あさ」超えの好発進 (まんたんウェブ) – Yahoo!ニュース

高畑充希さん演じる「とと姉ちゃん」のヒロインは小橋常子(こはしつねこ)ですが、
そのモデルとなっているのは、雑誌「暮しの手帖」の創業者・大橋鎮子さんです。

大橋鎮子さんとはいかなる人物だったのか?
そこで、調べてみましたので、ご紹介したいと思います。

大橋 鎭子(おおはし しずこ)さんのプロフィール

大橋鎭子さんは、大正9年(1920年)3月10日、
東京麹町で生まれました。

父親は商社マン、母親は女子美術学校出身。
小学5年生の時に父親を肺結核で亡くしています。
鎭子さんが11歳の時でしたが、葬儀の喪主を務めたそうです。

その後、高等女学校を経て、日本興業銀行に入行しました。
しかし、3年で辞め、日本女子大学に入学します。

ところが、ここで大橋さんに悲劇が襲います。
父親を死に至らしめた肺結核に自分もかかり、
学業を断念せざるを得なくなったのです。

大学中退後、静養生活を送ったのちに、
創刊されたばかりの日本読書新聞に編集部員として入社。

そこで、知り合ったのが、のちに「暮しの手帖」の
編集長となる花森安治さんでした。

花森安治さんのプロフィール

花森安治(はなもり やすじ)さんは、
1911年、兵庫県神戸市で生まれました。

旧制高校時代から編集に興味を持ち
校内雑誌を手がけていました。

高校卒業後は、東京帝国大学文学部美学美術史学科に入学。
東大でも学生新聞の編集に携わり、
卒業後は広告デザインの仕事に就きました。

そして、太平洋戦争が勃発。
日本が敗戦するまで大政翼賛会の外郭団体で国策広告を手がけました。
戦時中の有名なキャッチコピーとして知られる
「欲しがりません 勝つまでは」は花森さんが作ったという
説がありますが、これは間違いだそうです。

ちなみに、同コピーは東京の男性が小学生の娘の名前で応募し、
花森さんが採用したものでしたが、本人は一切弁明をしなかったといいます。

鎭子さんと花森さんの関わり

戦後の1946年。鎭子さんは花森さん、妹の芳子さんらと
「衣装研究所」という会社を銀座に設立しました。

鎭子さんは初代社長となり、「スタイルブック」という雑誌を創刊。
2年後の1948年には「美しい暮しの手帖」(のちに「暮しの手帖」と改名)を創刊。
花森さんが編集長を務めました。

そして、1951年、暮しの手帖社という現在の社名にもなりました。

「暮しの手帖」の徹底したポリシー

「暮しの手帖」は企業広告を一切掲載しないという
ポリシーを貫いていますが、これは花森・大橋コンビの
創刊時からの理念でした。

このポリシーは花森さんの戦中時の苦い反省があったと
言われています。

常に消費者側に立ち、商品の使い勝手などの実験を行う
スタイルで「暮しの手帖」は人気雑誌となりました。

ちなみに、花森さんは編集長として仕事だけでなく、
紙面デザインも手がけ、表紙の絵は、創刊号から死の直前まで
すべて花森さんがてがけています。

大橋さんのエッセイストとしての評価

一方、大橋さんはエッセイストとしても活躍しました。
1969年から「暮しの手帖」に「すてきなあなたに」
というタイトルのエッセイを長年にわたって連載。

この功績によって第10回東京都文化賞を受賞しています。

1978年、花森さんが66歳で死去したあとは編集長に就任。
2004年に暮しの手帖社の社主となり、2013年、93歳で生涯を終えました。

大橋さんが独身を貫いた理由

大橋さんは生涯独身でしたが、
それは花森さんとの約束でもあったといいます。

会社を設立した頃、花森さんに結婚について問われ、
「仕事を続けたいので、結婚はしない」と宣言。
この約束を死ぬまで貫きました。

ちなみに、大橋さんが結婚しなかったもうひとつの理由に、
肺結核で亡くした父のことを思って、
大橋姓を絶えさせたくなかったからだと言われています。

まとめ

戦後の激動の昭和を生き抜いた大橋鎮子さんを
モデルにした「とと姉ちゃん」。

ヒロインを演じる高畑充希さんは
NTTドコモのコミカルなCMでも有名ですが、
朝ドラでもいい演技を見せてくれそうです。

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